塩谷小学校へようこそ!

本校は、明治9年に開校し、これまでに145年の歴史を刻んできました。校舎は、小樽市北西部、眼下に塩谷海岸を見下ろし、背後に塩谷丸山を仰ぎ見る、海と山に囲まれた自然豊かな場所に位置しています。本校卒業生、伊藤整の作詞による校歌にも詠われている塩谷の夕日は、「小樽十景」にも選ばれており、ふるさとの豊かな自然は、今も地域の人々の誇りとなっています。
塩谷地区は、かつては塩谷村と称し、古くはニシンをはじめとする千石場所といわれた海の幸や丘陵地に名をはせたぶどう「紅塩谷(旅路)」、いちご等の果物産地として栄えてきました。小樽市と合併後は、多い時には児童数750名を超えていましたが、少子高齢化の波とともに減少化を辿り、現在は児童数は68名(通常学級6学級、特別支援学級3学級)の小規模校になっています。塩谷ぶどうを育んだ土壌と温和な気候、伊藤整を育てた豊かな自然と人々の心、歴史と文化に根ざした塩谷小学校へようこそ!

塩谷小学校について

地域の特色を生かした教育活動

ぶどうの栽培学習

本校の裏山には、ブドウ園があり、5・6年生が「総合的な学習の時間」において栽培体験学習を行っています。これは、かつて塩谷地区ではぶどう栽培が盛んで、新たな品種「紅塩谷」(現在は「旅路」)が名産であったことに由来しています。時代の移り変わりとともに、ぶどう栽培で生計を立てている農家はいなくなりましたが、平成元年に裏山にスキー場が完成した際に、地域の方によってぶどう園が造られ、多い時には300㎏程の収穫がありました。それから30年近くが経ち、依然ほどの収穫量はありませんが、全校児童が食べたり、ジャムやジュースを作ったりするには十分な量が収穫できています。5・6年生が地域の方から教わり、丹精こめて育てているぶどうは甘くとてもおいしいものになっています。

◇年間の学習と作業内容
4月 畑の支柱のたな上げと学習の説明
5月 畑の下草かりと肥料散布
6月 ブドウの芽のせん定 ※大きな実をつけさせるために、枝にできた芽の数を減らす作業です。 
7月 ハチ・トラップづくり(誘引)と設置 ※スズメバチなどブドウを食べてしまう虫からブドウを守るためにハチなどを誘う液をペットボトルを利用したハチトラップに入れて、畑の周りに設置します。甘い「紅塩谷」はすぐに食べられてしまいます。
8月 雑草とり、水まきと水やり、誘引
9月 雑草取り、水まきと水やり、誘引
10月 収穫 ※全校児童で、食べたり、ブドウジュースにします。 
11月 ブドウの利用、ぶどう学習のまとめ

 

縄文学習 

塩谷地区には、複数の遺跡があり、縄文時代から人々が暮らしていたことがわかります。中でも塩谷海岸のホッケマで出土した土器は、「ホッケマ(𩸽澗)式土器」と名付けられ、縄文人の暮らしの様子を垣間見ることができる貴重な資料となっています。そこで、本校の6年生は、毎年総合的な学習の時間の中で、地域在住の研究者の方を講師として、毎年縄文文化についての学習を行っています。

◇主な学習の内容  

○塩谷ホッケマ遺跡発掘  ○縄文ナイフづくり

○土器を使った料理   ○勾玉づくり など

海浜体験学習              

学校から見下ろす塩谷海岸には海水浴場があり、今でも小樽市の学校で唯一海での水泳学習を行っています。また、水泳学習の前には、全校児童で砂浜の清掃活動を行い、環境学習にも役立てています。ここ数年は、「水難事故防止教室」を開催し、海での事故を防ぐための取組にも力を入れています。

 

 

校章について

 塩谷小学校 校章

              制定:昭和30年10月(開校80周年記念に)

                草案:富田 鋼一 氏(第16代校長)   

◆ 松   校地の歴史性を表す

 天空に亭々と伸びる松林のあった場所を校地に造成し、また卒業生の植えた卒業記念の樹は見事な落葉松の林をなし、夏は緑したたり、冬は防風林として風雪から校舎を護っている。
 その姿は子どもたちの健康ですくすく伸び、やがて社会人にとして世の風雪に耐え忍び、生き生きと個性の伸長に期待をかける教育目標の一端を表している。

◆ 波   郷土の地域性を表す

 地理的条件から海に面した郷土、朝な夕な金波銀波にくだける波頭を配し、校下の風光明媚さと海に生きた先達の業を偲んでいる。

◆ ぶどう 郷土の地域性を表す

 校下地域の特産物ぶどうは、塩谷ぶどうの名声高く、ぶどう棚に包まれている校舎には、秋ともなれば高き香り漂い、恵まれた校地の環境を表している。

◆ 小   中央の小は,小学校を意味している。

校歌

 

 

 塩谷小学校 校歌
                          作詞 伊藤  整
                          作曲 磯部  寂

(昭和30年10月制定)

 


一  丸山に   朝日さすとき
   友さそい  小川のほとり
   学びやに  われらは通う    
   学びやに  われらは通う

二  雨の日も  雪ふる日にも
   すこやかに 育てと父母は
   卒業を      指おりかぞう   
   卒業を      指おりかぞう

三  賢くて   よき人になれ
   世のために 誠をつくせと
   師の君は  教えみちびく
   師の君は  教えみちびく

四  塩谷村      山はみどりに
   夕ばえの     海はかがやき
      はてしなく 夢はひろがる
      はてしなく 夢はひろがる

五  学を終え  わかれゆきても
   わすれさる 時はなからん
   師のもとに 学びし日々を   
             師のもとに 学びし日々を
       

  ※クリックすると校歌を聞くことができます。

 

※校歌を作詞された本校卒業生 伊藤 整 さんについては、「伊藤整のページ」をご覧ください。

 

                                     

学校の歴史

学校の沿革(概要)

明治9年1月 塩谷村35番地塩谷村教育所として創設
        9月    量徳分校となる
  14年1月 量徳分校と分離し、塩谷学校と改称
  20年5月 簡易科塩谷小学校と改称
  28年3月 公立塩谷尋常小学校に改称
  35年12月 徳源寺後(塩谷村160番地)に改築移転
  36年10月 公立塩谷尋常高等小学校と改称
  40年11月 校舎増築落成
  41年4月 桃内尋常小学校を統合開始
       伍助澤、新道、オタモイ簡易教育所を統合開始

大正11年11月 忍路群塩谷村字新道283番地に校舎を新築落成        

昭和14年   校舎大修繕
  16年3月 塩谷国民学校と改称
  19年2月 創立70周年記念式典挙行
  22年1月 校内放送施設完成
    4月 塩谷村立塩谷小学校と改称。教室を塩谷中学校に貸与
  29年5月 伊藤 整氏より図書寄贈。伊藤整文庫を創設
  30年9月 新校舎落成(木造)
    10月 開校80周年記念式典を挙行。新校歌・校旗・校章を制定
  33年4月 塩谷村と小樽市の合併により小樽市立塩谷小学校と改称
  40年8月 学校給食開始
  45年10月 科学技術発明展及び子ども銀行優良校として授賞
  46年10月 小樽市小中学校放送教育研究大会会場校
  50年8月 校門開設(中川 栄氏による寄贈)
    10月 開校100周年記念式典を挙行
  52年6月 校舎増築工事及びグラウンド造成工事着工。機械警備開始
  53年1月 第1期増築校舎落成
  58年4月 最大の学級数・児童数(20学級・156名)
    12月 第2期増築校舎落成
  59年12月 第3期増築校舎落成
  60年11月 屋内体育館新築工事完了
  61年2月 第4期増築校舎落成(鉄筋コンクリート造り)
  62年4月 開校110周年・校舎改築落成記念式典を挙行
  63年9月 木製遊具(6基)が完成                                                         

平成元年   校舎背面傾斜地をスキー場として使用開始
    9月 ぶどう園で初のぶどう約270kgを収穫
  3年9月 丸山登山実施、児童390名が登頂
  5年7月 北海道南西沖地震発生。塩谷海岸住民が体育館に緊急避難
  9年7月 塩谷地区「子どものすこやかな成長を願う会」設立
    11月 本校PTA活動に対して文部科学大臣賞を授賞
  16年5月    6年生を対象にほっけ潤遺跡学習を開始
  17年3月 「子どものすこやかな成長を願う会」後志教育実践表彰授賞
  18年5月 「読み聞かせの会」による読み聞かせ開始
  26年8月 ホームページ・リニューアル
  27年11月    開校140周年記念式典を挙行
  28年7月 潮まつりねりこみに初参加(稲穂大通り商店街賞受賞)
  30年7月 『海の安全教室(水難事故防止教室)』実施

令和元年7月 塩谷神社「松前奴」体験授業実施
    11月 市内第1ブロック公開研究会実施                                                           

  
 

 

伊藤 整のページ

伊藤整と塩谷

「私の故郷は小樽市の西二里、高島 と忍路の間の塩谷村である。私はそ こに幼くから育ち小樽の学校に通った。その辺一体は、北海道とは言ふものの、石狩の平野とか北見手塩の方の自然林とは大分異なつてゐる。木は落葉松が多く、栗、白樺などもある。海岸にそふて之等の木の繁つた丘陵が続いて居る。落葉松の葉は秋になれば皆黒く落ちてしまふ。草では虎杖目立つて多く一丈近くになる。私たちは虎杖をどんぐいと言つた。冬は十一月から四月まで雪が四五尺も積りその間私たちはスキーをやる。全く半年は雪なのだ。春は鰊場の仕事がすめば、梅も桜も皆一時に咲きほこる。九月には海にも入れないように涼しくなつて了ふ。そして、林檎が赤く実る。-故郷と周囲について私はまた書くであらう。-比処が大体私の詩の背景である。だから、私の詩をよく解つてもらへるのは北国の人々 だ。」(詩集『雪明りの路』序より)                                                   

1906年(明治39年)に1歳で塩谷に移り住んだ伊藤整は、小樽中学(現潮陵高校)卒業の二十歳までこの地で過ごしました。多感な幼少青年期に刻まれた自然との共生は、その後の文学活動に大きな影響を与えたのです。

「半年近くが雪であった」塩谷の子どもたちの当時の唯一の楽しみが、そり遊びでした。伊藤整のエッセイの何篇かに、故郷で遊んだその当時の様子が記されています。

「橇(そり)の多くは手製のもので、村の大工とか、手先の器用な近所の小父さんなどに橇の足を二本作ってもらい、それに手頃な箱を乗せるのである。」
「停車場に行く山越えの道は長い坂であるが…その坂の途中に徳源寺という寺があるので、寺の坂と呼ばれていた。長い坂の上の方から滑り下りる少年たちは、停車場へ行く人が登って来て衝突するのを怖れる。(下駄)スケートや橇の下りは、ブレーキをかけることができないから、下から歩いてのぼる人があると、滑って下りる少年が雪の中に飛び込まねばならぬ。それで少年たちは、ずっと上の方から声をかける。『されよう!』と言う。曲がり角ごとに、人とぶつかるのをおそれて『され よう!』と叫びながら、橇が滑ってくる。」(『北国の新春』『塩谷村、雪の夜の鈴音』より)

厳しい自然と向き合いながら、たくましく生きる子どもたちのエネルギーが伝わってきます。

 

※徳源寺前の坂。冬の遊び場であったこの急な坂は、通学路として今も子どもたちを見守っている。

 

塩谷村から小樽中学に通っていた整は、3年生の時、先輩から汽車の中で一冊の詩集を渡されました。その出会いによって、文字通り詩にとりつかれた整は、作品を次々と書き貯めていきます。そして、15歳から7年間書き続けた詩作を、知人の父が営む小樽市内の印刷所を「椎の木社」と名付け、自費で出版しました。これが、伊藤整の処女作『雪明かりの路』です。

「私は、吹雪の中を歩きながら一、二行を口ずさんでは、学校のノオトの端を破いては書き、(中略)私の場合は、吹雪や雪融や一度に萌え出る若葉と花や蛙の声や落葉松の 芽や秋の空や村人の生活や家族…などとのつながりにおいてであった。」(「『雪明かりの路』について」)         

 発表を契機に上京、そして文壇へ飛翔していった整ですが、  くり返しくり返し塩谷に思いを寄せる随筆や作品を発表しています。「故郷としてはこの村のことしか考えられない。」(『自伝的スケッチ』)という思いは、作品中の少年・青年期の描写にも深く表れています。

「家の前を流れる川に沿って家並が両側にある。その道を十分ほど下がっていくと、小さな丘の上に村の役場がある。」「役場の辺からこの海岸までの間は、村の一番賑やかな通りで、菓子、雑貨屋、米屋、湯谷、魚屋など、色々な店が並んで お、通りを隔て役場と向かい合った山の裾には、学校と病院とがあった。学校は海岸から三町ほど離れ、山の下にあった」(『子供歴』)今の塩谷にも、その当時の面影が残っています。

氏の没後1年を経た1970年(昭和45年)、故郷である塩谷の街やポンマイ岬が一望できるゴロダの丘に、伊藤整文学碑が建てられました。碑には病床にあった自身の筆で書かれた、詩『海の捨児』の前半部が刻まれています。

       海の捨児

    私は浪の音を守唄にして眠る
    騒がしく絶間なく
    繰り返して語る灰色の年老いた浪
    私は涙も涸れた凄愴なその物語りを
    つぎつぎに聞かされていて眠ってしまふ
    私は白く崩れる浪の穂を越えて
    漂っている捨児だ
    私の眺める空には
    赤い夕映雲が流れてゆき
    そのあとへ星くづが一面に撒きちらされる
    ああこの美しい空の下で
    海は私を揺り上げ揺り下げて休むときもない

※ふるさとの情景を大切にし続けた整の原点を、この丘に立つと感じることができるかもしれません。